新着情報

TKC東北会秋田県支部主催の講演会
千葉市美術館の山梨絵美子館長
「秋田が生んだ芸術のパトロン 平野政吉」

 令和4年12月6日(火)、秋田市中通の「パーティーギャラリーイヤタカ」で開催されたTKC秋田県支部主催の講演会に、当法人の会員11名が参加しました。
 今回の講師は、昨年4月に千葉市美術館で初の女性館長に就任した山梨絵美子さん(秋田市出身)。東京大学文学部美術史学科、同大学院を修了後、1989年に東京国立文化財研究所の研究員となり、独立行政法人化以降も同研究所で近代美術史の調査研究に携わりました。2016年からは国立文化財機構東京文化財研究所の副所長も務めました。講演会では「秋田が生んだ芸術のパトロン 平野政吉」のテーマで、西洋画や藤田嗣治、平野氏について紹介していただきました。

【黒田清輝、藤田嗣治と裸体画】

 秋田市大町に生まれ、県内有数の資産家だった平野政吉は、幼少期から絵が大好きで絵描きになりたかったそうです。青年期から浮世絵などの収集を始め、新しいもの好きだった政吉は、1929年に画家・藤田嗣治の作品に出会い、魅了されます。
 一方、東京生まれの藤田嗣治は1910年に東京美術学校西洋画科を卒業後、1913年に単身パリに渡り、第1次世界大戦を経て1917年から本格的な画家生活を送るようになりました。
 藤田の師は、美術の教科書にも掲載されている「湖畔」などの作品を残した黒田清輝でした。黒田は当時のフランスで流行していたジャポニズムに気づき画家になりましたが、フランスの絵画が「思想的なもの」を現していると感じ、「構想画」(構想に基づき、意識的に構成した絵)を重視。西洋美術の普遍的な美を体現するため、日本にも「裸体画」が必要と考え描くようになります。1893年に朝妝(ちょうしょう)という裸体画を制作、その後出品して日本で物議を醸しますが、黒田の狙いは「裸体を公衆の面前に出してはいけない、という日本の考え方を変える」ことだったようです。
 一方で藤田嗣治も西洋の裸体画を描き、本場のフランスで評価を受けることを目指します。喜多川歌麿など浮世絵の美人画に現れる肌の質感を西洋絵画に取り入れはじめ、山梨さんも好きな藤田の裸婦の絵は、浮世絵のような細い線で描かれているそうです。

【藤田嗣治と壁画】

 1934年、東京の二科展の会場で平野政吉と藤田嗣治は出会います。平野は、亡くなった藤田の妻マドレーヌの鎮魂のため美術館建設を構想。藤田の作品も多数、購入し、藤田に壁画の制作を依頼しました。藤田は平野が持つ約40坪の土蔵をアトリエにして壁画の制作にとりかかり、1937年3月12日に完成しました。
 戦時下で美術館建設は中止されましたが、平野は1967年に公益財団法人平野政吉美術館を設立し、平野のコレクションが展覧できる秋田県立美術館(現在は秋田市文化創造館)が開館します。藤田が制作し、今は新しい県立美術館に展示されている大壁画「秋田の行事」はパネル5枚を連ねたもので、かまくらや竿燈祭り、三吉神社のお祭りなど、秋田の外町の人たちの生活ぶりや祭りを描いた作品。地域にまつわることが多く織り込まれています。
 山梨さんによると、旧県立美術館は近隣の県に比べ、開館年度がとても早かったそうです。平野が美術館建設を構想していた頃には、国内にある公立美術館の中でも古い東京府美術館(1926年)などが開館しています。
 山梨さんは、優れた着眼点で藤田の作品をいち早く収集し、壁画を依頼して実現させた平野政吉について触れながら「藤田が描いた壁画『秋田の行事』や、平野氏のコレクションは国際的にも誇れるもの。1930年代からあのような芸術に着眼した人が秋田にいて、それを秋田の人が今まで守ってきた。そのことを知ってほしい」と強調します。
文化庁が美術館や博物館による地域の活性化を支援していることにも触れ、「地域の文化資源としても、藤田の壁画や旧県立美術館、周辺の景観、土地の価値をぜひ大事にしてもらいたい。壁画はもとの美術館にはないが、あの壁画を見ると『秋田に帰ってきたな』と思う。ぜひ皆さんで大切にして、周囲の人たちにその価値を伝えてほしい」と呼びかけていました。