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TKC東北会秋田県支部と当会共催の生涯研修
~白井晟一の孫、建築家・白井原太氏が講演「文化の継承―建築保存の視点から―」~

 令和4年8月23日(水)、秋田市中通の「パーティーギャラリーイヤタカ」において、TKC秋田県支部と当会の共催による講演会が行われ、当法人の会員15名が参加しました。今回の講師は、日本を代表する建築家で本県にも多くの作品を残した白井晟一(しらい・せいいち)の令孫、建築家の白井原太(しらい・げんた)氏。白井晟一作品の保存や利活用に関する取り組みを紹介していただきました。

【白井晟一について】

 明治38年(1905年)、京都に生まれた故・白井晟一は、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)を卒業後ドイツに渡り、ハイデルベルク大学などで近世ドイツ哲学を学ぶかたわら、ゴシック建築についても学びました。高村幸太郎賞、建築年鑑賞、日本建築学会賞など多くの賞を受賞した日本を代表する建築家ですが、中央公論新社が発行している「中公新書」「中公文庫」の装丁も手がけたほか、書家としても知られています。
 白井の代表的な建築作品には「渋谷区立松濤美術館」、長崎県佐世保市にある「親和銀行本店」、東京都港区麻布台にあるオフィスビル「ノアビル」などがあります。生涯の建築作品数は70数棟と多くはありませんが、そのうち3分の1ほどが秋田の作品。本県に現存するのはさらにその3分の1ほどだそうです。
 本県においては、秋田で最初の作品となった「羽後町立羽後病院」(改築により現存しない)、惜しまれつつ2017年に解体された「旧雄勝町役場」、「横手興生病院」(増改築により現存しない)のほか、現存するものでは秋の宮温泉郷「稲住温泉『浮雲』」、稲住温泉に移築された「旧秋ノ宮村役場」などがあります。

【白井晟一作品の保存・継承】

 白井晟一の孫である白井原太さんは、建築、内装、街並み再生デザインといった仕事のほか、白井晟一作品の保存、利活用にも取り組んでいます。
 昭和28年に東京都世田谷区上野毛に建築された白井晟一設計の住宅(旧名称:試作小住宅)を湯沢市に移築する際、その設計を手がけた原太氏。湯沢市で江戸時代から代々医師だった渡部家の子どもたちが、上京して学生時代を過ごすために建てられました。
 移築を実行したのは、建築当時の施主のご長男(湯沢市の医師、渡部三喜氏。この住宅の最初の住人)。母のリツさんが他界された際、「建物を大事にしてくれる人に引き渡して欲しい」という遺言的なメモが見つかったため、継承者を募集しましたが申し込みはなかったそうです。
 解体の方針が固まりつつあるなか、三喜氏は「最後に一泊して決めよう」とこの住宅に泊まり、思いを巡らせた結果、「やはりこの建物を残したい」という気持ちになり、湯沢市への移築を決意したそうです。
 当初、移築するのは建具や照明程度の予定でしたが、「建築された時の事が脈々と感じられるような状態だった」と原太さん。もとの状態のまま部材を湯沢市に移動することにしました。
 近年はコスト高のイメージから、あまり選択されない「移築」も、昔はスタンダードな手法でした。湯沢の住宅は、基礎や屋根材、設備機器以外、80%程度は再利用することができたそうです。部材の再利用率が高ければ、新築とさほど変わらない金額で思い出のある建物を残すことができるため、「移築にも可能性がある」と原太さんは強調します。
 平成19年に移築されたこの住宅は「顧空庵(こくうあん)」と名付けられ、平成31年に国の登録有形文化財に指定。戦後建築で「移築」を経て残った建物としては初の登録でした。
 原太さんはこのほか、白井晟一が1959年にアーティストである増田義祐、欣子夫妻のために設計した住宅「増田夫妻のアトリエ」の保存再生改修を、夫妻が他界された後に手がけています。
 原太さんは顧空庵の移築において、建築を構成している部材をすべてリスト化。保存の優先度をA~Dのランクに分け理想論をまとめたうえで、調査をしながら「実際はどうなのか」を追求しました。「そういった形をオーナーや施工者、設計者が共有し、『何に重きを置くか』がブレないよう、議論しながら進めていくことが重要だ」と話します。
 保存においても、まずは元の設計者や住まい手が「何を大切にしてきたか」を読み解き、それを軸に建物のポテンシャルを引き出すべく、「何を残し、何を新しくしていくかを探り、形にしていく」といいます。
 残す部分と新しくする部分は簡単に決めるのではなく、オリジナルと対比しながら、「住み手とつくり手が本当に必要かを考える、ということを中心に据えなければ、建物としての文化は残っていかない」と持論を展開します。
 一方、旧雄勝町役場のように惜しまれつつ解体された建築もあります。保存運動まで発展しながらも利活用策が決まらず、保存運動を起こした市民団体が示したシェアオフィスなどの案も、結局通りませんでした。原太さんは秋田魁新報への寄稿で「ある建物が解体の危機に直面した時、興味や関心が建築関係者に限られ、一般の方々には縁の薄い存在になっていては残すことができないことを、旧雄勝町庁舎の解体時に痛感した」とつづっています。
 それ以降、地元の文化や歴史に愛着を持ってもらおうと、湯沢市の小・中・高校生を対象に地元の建物をスケッチする企画を行ったり、白井晟一を中心に湯沢の歴史的建物を見学するツアーを実施したりと、普段は建築に関わりのない人でもそれを身近に感じてもらえるような取り組みを続けています。
 原太さんは最後に、「いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねているものを取り入れていくこと。また、新味を求めて変化を重ねていくことこそが不易の本質であること。歴史を知る事。共感する人を作ること―地方にはその可能性が気付かれないまま残っている」「“誇りと愛着”が伝わる事により継承につながる」と締めくくりました。単に建築を保存するのではなく、建築に宿る魂や文化、思いを継承するという意思が、今回のお話から伝わってきました。
 皆さんは、地元の伝統や文化、誇るべきものをきちんと知っていますか?秋田に住んでいて、秋田のことをきちんと知ろうとしていますか?足りていないなと感じた方は、ぜひ白井晟一の建築に触れることから始めてみてはいかがでしょうか。