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TKC東北会秋田県支部主催の講演会
大潟村あきたこまち生産者協会の涌井徹会長
「若者が夢と希望を持てる農業の創造」

 令和5年8月23日、TKC東北会秋田県支部主催の特別講演会に、当会会員11名が参加しました。今回の講師は、篤農家で大潟村あきたこまち生産者協会代表取締役会長の涌井徹氏。「若者が夢と希望を持てる農業の創造~行政と農協の圧力と闘った半世紀~」のテーマで、国の減反政策など厳しい時代を乗り越えてきた経験や、最近の取り組みについて講演していただきました。

【減反政策に翻弄された時代】

 涌井氏は新潟県の農家の生まれ。八郎潟の干拓事業で誕生した大潟村での大規模農業に夢を持ち、21歳の時に家族と村に入植しましたが、その頃には米の過剰時代が始まっており、国による「減反政策」が全国で行われました。国は農家に畑作への転換を求め、青いうちに稲を刈らせる「青刈り」を行ったり、作付面積の制限を守らない入植者に「農地没収」の通知を行ったりしました。涌井氏は猛烈に反対しましたが、育てた稲は結局、刈ることに。しかし農地没収の通知を受けた入植者は調停を申し立て、3年後には作付けを10haまで広げることが認められました。
 涌井氏は独自で玄米の販売に乗り出し「自由米」として売りましたが、「農協を通さないものは不正流通米」として「ヤミ米」と呼ばれ、犯罪者扱い。県はヤミ米の販売阻止で検問を行ったり、無許可でコメを販売したとして一部の入植者を食糧管理法違反で県警に告発したりしました。告発された人たちは結局、不起訴となりました。
 自立した農業経営のため、涌井氏は昭和62年に「大潟村あきたこまち生産者協会」を設立。白米を直送する個人向けの産直に乗り出しましたが、米の宅配業者が協会の米の取り扱いをやめる「宅配便ストップ問題」が起こったり、ヤミ米に反対するデモ行進があったりと、ヤミ米をめぐる様々な圧力が襲います。それでもめげずに、涌井氏は農家との「信用」を大切にする選択をし続けました。平成7年には有機農業に取り組むため、米ぬかで発酵肥料をつくる工場も建設。この年、新食糧法が施行され、農家は自由に米を販売できるようになりました。

【米の付加価値化とタマネギの産地化】

 米の自由化により付加価値の必要性を感じた涌井氏は平成12年に「無洗米」の工場をつくり、業務用米の販売を開始。様々なニーズを探るなかで「長時間おいしいお米」に対応するため、低温で炊けて食感抜群の米を開発するなど、他社との差別化を繰り返しました。
 米の消費量減を踏まえ、平成20年頃からは米の加工にシフト。小麦粉の代替として注目されていた米粉使用めんを商品化しましたが販売実績は出ず、隘路に迷い込みました。米粉パンも試しましたが、膨らみのもと「グルテン」が小麦アレルギーの原因となるため使用できず、米粉用米の在庫を大量に抱えました。そんな時、男子テニスのジョコビッチ選手が小麦を使わないグルテンフリーの食事法を実践していると話題に。協会にも問い合わせ・注文が入り、東京五輪の選手村にも食品を提供したそうです。
 営農者の高齢化や後継者不足で離農者が後を絶たない状況を危惧し、平成28年には安定した収益の仕組みづくりを目指す「みらい共創ファーム秋田」を設立。新規就農者の育成に力を入れながらタマネギの生産に参入しますが、収穫量を左右する要素が多く、何年経っても失敗ばかり。そんな時、菅義偉官房長官(当時)から東北での夏場のタマネギ出荷を頼まれます。「タマネギ栽培は難しく技術指導が必要だ」と訴えると、菅長官はすぐに手配し、農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)の研究員が大潟村でデータ収集や分析を進めました。昨年には農研機構などと「東北タマネギ生産促進研究開発プラットフォーム」を設立し、一大産地化を目指しています。
 令和2年にはパックご飯の製造・販売にも乗り出し、新会社「ジャパン・パックライス秋田」を設立。県内初のパックご飯製造工場を建設しました。今では24時間体制で月間300万食を生産しています。
 涌井氏が入植当初から持ち続けている理念は「若者が夢と希望を持てる農業の創造」です。今年4月には農研機構、NTT、みらい共創ファームの3者で「秋田県タマネギ産地形成コンソーシアム」を設立し、AIなどを活用したスマート農業の実証を始めました。「熟練農業者や営農指導者がやめてしまうと、若い農業者や指導者しか残らない」と警鐘を鳴らし、新規就農者でも遠隔で栽培技術を習得できる仕組みを目指します。
 涌井氏は今回の講演の終わりに、「一日で変わる歴史もある 一生かけて変える歴史もある 歴史を創るのは あなたです」という言葉を紹介しました。「若い農業者は父や祖父たちの苦労を知らないが、1晩で歴史が変わることもある。自分たちで歴史をつくっていかなければ」と強調する涌井氏。農業をめぐり激動の時代を生きてきた人の、重みのある言葉でした。